坂の上の雲 司馬遼太郎 <国家というもの>
今日はクリスマスイブであることをテレビでしきりに取り上げている。日本人はこういうイベントで大はしゃぎするのが好きなのか。
久しぶりに穏やかな晴天に恵まれた。ホワイトクリスマスよりこちらのほうがいいと思うのは少数派だろう。
裏庭には、シジュウカラのつがいやジョウビタキがやってきてさえずっていた。
ところで、坂の上の雲(司馬遼太郎)の中に次のような記述がある。
日本人というのは明治以前には「国民」であったことはなく、国家という観念をほとんどもつことなくすごしてきた。
かれらは、村落か藩かせいぜい分国の住民であったが、維新によってはじめてヨーロッパの概念における「国家」というひどくモダンなものをもったのである。
明治政府は、日本人に国家とか国民とかいう観念をもたせることにひどく苦慮したようである。このため、
- 天子さまの臣民。
という思想を植えつけようとした。忠義の観念は、封建時代の大名とその家来においてすでに濃厚な伝統がある。
これをおしえることのほうが、国家と国民の関係を道徳において説くよりもよりわかりやすかった。
そういうことで維新成立後27年もたち、維新後の国民教育のなかから育った者が、壮丁の年齢をこえた。それらが戦場におくられている。しかも勝利をつづけている。
この国民的昂奮が、はじめて日本人に国家と国民というものがどういうものであるかを一挙に実物教育してしまった。
維新後の国家という観念がこうして生まれた結果、第二次世界大戦まで、日本人にとっての国家体制の維持は戦争によって可能となった。
それでは、太平洋戦争での敗戦後の日本人にとっての国家という観念は、どのように育っていったのか。
私には、はっきりとしたことは言えないが、もしかするとそれは未だ育っていないのかもしれないという感覚がある。アメリカから入ってきた民主主義と資本主義は、日本にいったい何をもたらしたというのか。
日本という国家はどういうものであるのか、国家としてどのような在り方を目指しているのか。その議論がないまま高度成長期を経て、バブル崩壊を経験し、失われた10年がすぎ、長期低迷による体制疲労に国民は翻弄され、少子高齢化、人口減少のうちに、現在のように政権交代があり、景気低迷があるなか、いまのままの国家では、国民は将来に希望をもつことは難しいのではないのか。
反省なきうえに、新しい国家再生はありえない。日本はまだまだ立ち後れている。

















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